吉田東伍と関係が深い人物

更新日:2020年12月01日

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関係の深い人々

高橋義彦 (東伍の実弟)

高橋義彦の写真

故郷地で同じ史学の道を志した東伍の分身的存在。
東伍の「分身」とも言われ、故郷越後の地で同じ史学の道を志し、模範的な活躍をする弟義彦の存在は、東伍にとって大変な誇りであり、また精神的な支えでもあった。 

高橋義彦年表

出来事

1870(明治3)年

新潟県北蒲原郡保田村(現阿賀野市保田)旗野木七の四男として生まれる。幼名は三代三郎。

1889(明治22)年

中蒲原郡海老ヶ瀬(現新潟市)の豪農・実業家の高橋太郎家の婿養子となる。

1898(明治28)年

兄東伍の『大日本地名辞書』の編纂協力を契機に越佐の史料収集に取り組む。

1917(大正6)年

編年体史料集『越佐史料』の編纂を決意し、着手する。

1925(大正14)年

『越佐史料』第一巻を発行し、順次第五巻まで出版。

1930(昭和5)年

第六巻発刊準備中、腎臓病を発病し入院。

1931(昭和6)年
4月

死去(享年61歳)

8月

遺族によって校了原稿の一部(「天正十二年六月分まで)が第六巻として出版される。(注意)以降の分は活字化されていない。

吉田千秋 (吉田東伍の次男)

吉田千秋の写真

言語、音楽、動植物に深い関心をよせた才人。
言語に高い関心を持ち、音楽をこよなく愛し、そして動植物に深い愛情を寄せ、素晴らしい感性を発揮した。

吉田千秋年表

出来事

1895(明治28)年2月

新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現新潟市大鹿)に生まれる。

1913(大正2)年

訳詩“Hitsuji-gusa”を『ROMAJI』誌9月号に発表。

1915(大正4)年

「ひつじぐさ」(「琵琶湖周航の歌」の原曲とされる)を『音楽界』誌8月号に発表。

1919(大正8)年

肺結核のため死去(享年24歳)

旗野十一郎 (はたのじゅういちろう 吉田東伍の叔父)

旗野十一郎の写真

数々の明治唱歌をのこした、東伍の良き協力者。
東伍も開設されたばかりの保田小学校(当時は「必勤舎」)に通い、十一郎から教えを受け、一時は十一郎の養子にもなっていた。また、東伍が『大日本地名辞書』編纂の計画を最初に打ち明けたのも叔父十一郎であり、彼の所蔵する、東伍にとっては大叔父の小川心斎が書き残した未完の地誌『国邑志稿』を資料として利用することを許し、最後まであきらめずに頑張るように励ました。

旗野十一郎年表

出来事

1850(嘉永3)年

越後國蒲原郡保田村(現阿賀野市保田)に生まれる。
初代保田小学校長、保田村戸長を務めたのち上京、陸軍参謀本部、文部省唱歌伝習所に出仕。

1892(明治25)年

東京音楽学校の国語教師として教壇に立ち、『港』をはじめ、数々の明治唱歌の作詞も手がける。

1908(明治41)年

死去(享年58歳)

市島春城=市島謙吉 (いちしましゅんじょう=いちしまけんきち 同郷の良き理解者)

市島春城の写真

『読売新聞』主筆などを歴任した同郷の良き理解者。
 姻戚関係もあったことから、東伍との間には頻繁に行き来があり、東伍にとっては終生に渡る良き理解者であった。

市島春城年表

出来事

1860(万延元)年

越後の大地主、市島家の筆頭分家角市市島家五代次郎吉の長男として生まれる。

1891(明治24)年

衆議院議員を務めるかたわら、『読売新聞』主筆として健筆をふるう。
政界引退後、旧友高田を助けて早稲田大学の経営をする。

1902(明治35)年

初代早稲田大学図書館長就任。
晩年には、随筆家(注意)「蟹の泡」としても知られる。

1944(昭和19)年

死去(享年85歳)

坂本嘉治馬 (さかもとかじま 『大日本地名辞書』の出版元、冨山房店主)

坂本嘉治馬の写真

『大日本地名辞書』の出版元、冨山房(ふさんぼう)店主。
東伍と嘉治馬の出会いは『大日本地名辞書』を仲立ちとして、まさに互いに人を得た思い深くしてなった一大事業であったと言える。

坂本嘉治馬年表

出来事

1866(慶応2)年

土佐国幡多(はた)郡宿毛(すくも)(高知県宿毛市)の足軽・小農の家に生まれる。

1883(明治16)年

上京し、東洋館書店の店員となる。

1886(明治19)年3月

冨山房を創設する。

1938(昭和13)年

死去(享年73歳)

旗野美乃里 (はたのみのり 東伍の甥 旗野餘太郎の長男)

旗野美乃里の写真

欧米を巡り、安田の酪農業の基盤を築いた。
安田の酪農業の基盤を築いたとされる人物。

旗野美乃里の写真

出来事

1875(明治8)年

新潟県北蒲原郡安田村(現阿賀野市保田)に生まれる。

1898(明治31)年

ヨーロッパ・アメリカを巡る。
(注意)美乃里は欧米人と日本人の体格の違いを思い知らされ、それを克服するには食生活の改善が必要であると考える。牧場経営の構想を生み、カナダ産の乳牛、エアシャ種牡牝三頭を持ち帰った。
彼の開いたツベタ牧場は、最盛期には馬10頭、乳牛60余頭、緬羊・山羊それぞれ数十頭、豚十数頭と言った規模で肉鶏も数十羽飼育されていたと言われる。

1906(明治39)年

蓑織から美乃里と改名する。

1932(昭和6)年

死去(享年57歳)

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